アセンションは近隣宇宙全体にかかわる壮大なイベントですが、これに関するすべての情報は、私たち地球の人類が、そのスムーズな実現の鍵を握っているという点に収斂しています。たかだか太陽系の一惑星の住人が、太陽系はおろか銀河宇宙の動向を左右する重みを持っているということは、苦難の歴史を経てやっと定説化した「地動説的宇宙観」になじみやすいものではありません。これを敷衍することは次回以降に譲りますが、地球人類1人ひとりの意識の動向が、重大な関心をもって、さまざまな「神々」や「宇宙の存在たち」によって時々刻々モニターされていることは間違いありません。意識は波動として宇宙全体に放出されているので、これをキャッチすることは、波動の奥義を極めている「存在たち」にとって「朝飯前」のことのようです。
そのモニター情報によれば、意識の深いレベルでアセンションを意図している約1割(6億)の人口の男女比は、約3:7とのことです。表面的に観察できるアセンションへのコミットメント(積極的関与)の男女比は、2:8ぐらいでしょうか、いやどうかすると1:9ぐらいかもしれません。男性は、表面意識はそうでなくても、潜在意識で「知っている」人が少なくないようです。いずれにせよ、ここでは完全な「女性上位」です。これは、現に職に就いているかどうかには、あまり関係がありません。
女性は本来的に直感に優れています。彼女たちが、一見、考える前に行動するように見える部分は、男性の論理で計ることのできないものです。生理、妊娠、出産、育児など、「いのち」とのかかわりが深いことと、何か関係があるかもしれません。「直感」の答えは一瞬で出ますが、「考え」は時間がかかるだけでなく、このテーマについては、結局答えは出ないのです。いずれにせよ、「男性原理」が支配的なこの社会の「戦士たち」が気づいていない深層部分で、彼女たちを先頭に急速に膨らみつつあるアセンションへのエネルギーは、いずれ「水面」に姿を現すでしょう。実際、「次の時代」をリードするのは、主に女性だとのことです。そして、すぐその後に、「インディゴたち」が本命として登場します(「インディゴ」については、本シリーズの「アセンション(4)、インディゴ・チルドレン」を参照)。
現在の流れでいくと、アセンションへのいくつかの「パス(通り道)」のなかで、「肉体を伴ったアセンション」を達成するのは、女性が圧倒的多数を占めるのは間違いないでしょう(もちろん、「インディゴたち」は男女の別なく全員が、難なくアセンションします)。そうなると、男女比のアンバランスを心配する向きがあるかもしれませんが、その心配は要りません。次の時代には、すべての人が、男性原理と女性原理を均等に持つ本来の姿に戻るからです。生物学的な意味でも、寿命が事実上無限となるなかで、社会にとっての「生殖」の意味合いが変わってくるのです。
この流れに対して、もし「女子供に何ができる」という感想を持つとすれば、そのエネルギーは、次の時代に持ち込むことができないものです。「女子供」が得意とする領域が、大きいウエイトを持つようになります。この変化に抵抗するよりは、変化を受け容れて、流れに乗る方がずっと楽です。
アセンションは、その性質として、個人にかかわる出来事です。したがって、経営者や従業員を含めた、ひとつのビジネスの全体がアセンションするということはありえません。「奉仕」はあっても、「ビジネス」というものが存在しない社会に移行するのだから、当然のことです。一方、現代社会では多数の人が、経営者や従業員という形で、ビジネスとのかかわりを持っています。そして、ビジネスに身を置きながら、アセンションに備えるという困難な課題を、抱えています。これは、関係者がその事実を認識しているかどうかには関係ありません。
そこで、ビジネスの在り方が大きい問題になります。特に事業目的や事業内容が重要です。ヒューマニティーの観点からこれを見ると、「地球人的(3次元的)耽溺」の種となる商品やサービスを提供するビジネスが少なくないのは残念なことです。また、報道、放送、出版、娯楽などの業界のように、現代社会の「混迷の渦」をいっそう掻き混ぜるような、刺激的な「作品」の提供に注力するケースも広範に見られます。多くの場合、競争原理のなかで、それを徹底的にやった者が、今のところ、ビジネスとして成功することが多いのが実情です。
地球(ガイア)との関係では、地球規模の「資源争奪戦」にかかわるビジネス、生態系の破壊につながるビジネス、環境汚染に関係するビジネス、そして兵器産業などが問題になります。また、すべてのビジネスに関係することとして、経営理念や運営のなかで、地球環境や人類を含む地球上の生命の健全な営みに配慮しているかどうかも重要です。
以上に加えて、現代のほとんどの企業が、もっと深刻な「ワナ」にはまっています。「個体」としての売上や利益の「成長」にもっぱら注力して、商品やサービスを「もっと買わせる努力」の行方が、マクロでどういう結果をもたらすかの判断を、なおざりにしているのです。また、他社との競争や比較にとらわれて、株価や社債の格付けに代表される「市場の評価」を至高の基準として「崇拝」する傾向があります。その結果、いわゆる「グローバル化」の趨勢のなかで、いっそう深くその流れに身を投じることしか「生き延びる道がない」、という思いにとりつかれています。独自の理念が弱いから、市場の原理に振り回されるわけです。ほどほどのところで落ち着くことができず、到達点が見えないまま、いつもテンションが張りつめている、という状況がみられます。
一方、「雇用する者(経営者)」と「雇用される者(従業員)」の組み合わせという、企業の一般的な形態が持つ内面の問題もあります。それは、経営者が従業員を「所有する」という関係、その裏として、従業員はいつでも「処分可能」という観点です。実際に「発動」されなくても、常にこの関係が潜在しているため、従業員は或る種の「主権不在」の状態に置かれています。アセンションが達成しようとしているのは、「個人の主権の完全な回復」です。したがって、雇用関係が、意識の状態に影響しないような身の処し方をしなければなりません。簡単でないかもしれませんが、常に「自分の中心に居る」ことが重要です。
さまざまな観点から、現在の勤めが自分のためにならないと思い、また個人としての改善努力にも限界があると思う場合は、それから「離脱」する方が賢明です。しかしその前に、ひとつだけ確認することがあります。それは、経営者または上司との「カルマ」です。カルマとは、別の時に生じた「負債」を完済するという約束です。通常金銭的なものではなく、また多くの場合「暗黙の約束」です。そのようなカルマの清算(返済)を、「今生」のテーマのひとつとしている場合があります。この場合、「離脱」する前に、それを完遂しなければなりません。
この世に「偶然」はなく、カルマに該当する場合は「必然的に」それを処理できる環境が整い、完遂したかどうかも自分の感性で分かるはずです。そして自然に、あるべき方向に動いていくでしょう。このケースでもし、完遂した後さらに「居座った」とすると、今度は逆の関係のカルマ(相手が負債を持つ)を含む新たなカルマが生じ、それを将来に持ち越すことになります。これは避けた方が賢明です。ここでのテーマではありませんが、アセンションは、「今生」のものであれ「過去生」のものであれ、すべてのカルマを清算することが条件になります。
さて、雇用関係から「離脱」した後、主権を確立した人が目指すべきものは何でしょうか。その中心になるべきものは、広くヒューマニティーのための奉仕的活動だといってよいでしょう。それが、個人としてのビジネスになることもあります。いずれにせよ、どんな障害にも解決策があり自分がその能力(創造力)を持っていることを信じて行動すれば、結果がついてくるでしょう。ただし、価値基準を変えることは必要です。また、それまで身につけてきた「意識のモチモノ」を捨てることも重要となるでしょう(本シリーズの「アセンション(4)、モチモノの点検と廃棄」を参照)。
ほとんどの人は、今のところ無関心ですが、アセンションの一環として、これまでの「現実」の「融解」が目前に迫っています。本来「現実」は、人々の「思い(意図)」によって創られかつ支えられているので、人々の意識の変化が或る「臨界点」に達すると、それまでの状態が保持できなくなって、あたかも金属が溶けるように別のものに変容します。この変容は、突然起こります。
「思い」によって「現実」が変容するということは、意図するどんな「現実」でも創造することができるということを意味します。これをにわかには信じられないのは、これまで身につけてきた「集合的な信条体系」あるいは「集合的な固定観念」とも言うべきものが、邪魔しているためです。これをすっぱり捨ててしまっても、何も困ることはありません。それどころか、「現実」についての新しい認識を持つことによって、これから起こってくる事態への対応の幅が広がることは間違いないでしょう。
ガラスやプラスチックの板に彫られたホログラムをご覧になったことがあると思います。これは、どの方向から見ても、立体的に見えます。驚くべきことに、そのガラスを砕いた破片の一つ一つに全体像が見えます。つまり、部分が全体を同時に含んでいます。私たちが慣れ親しんできた「物理的現実」は、このホログラムと事実上同じものです。ただし、板ではなく空間に立体的に投射されています。この光の集合を、感覚器官の働きによって、個体や液体などとして認識しています。
この宇宙の基本要素は、「意識」と「エネルギー」(だけ)です。光とエネルギーは基本的に同じものです。「根源」から発せられた光が、私たちの空間を覆うプリズム(またはフィルター)を通して、さまざまな属性(光線の種類)に分かれます。「集合意識」または個別の「意図」が、特定の「体験(つまり現実)」を求めると、さまざまな属性を持つ光に新たな方向付けがなされ、それらの相互作用を通じて対応するホログラムが形成されます。このホログラムが、私たちが「現実(または物質)」として認識するものの実体です。
この過程で、地球や生命体が持つ「ボルテックス」というものの関与があります。ボルテックスは、「チャクラ」とも呼ばれ、エネルギーの渦巻きで、「創造」を規定する「光の情報パターン」を内包しています。これは、エネルギーの電磁的パターンの、送受信機ともいえます。光線は、ボルテックスを経由して投射されます。
いったん創造された「現実(つまり、ホログラム化されたイメージ)」が維持されるためには、光が元のパターン通りに投射され続け、同じ「思い(意図)」が与えられ続ける必要があります。普通は「集合的な固定観念」がこれを支えていますが、「思い(意図)」の内容が本質的に変われば、光の方向付けが大きく変わりホログラムが激変する、つまり「現実」が「根本的に」変わるわけです。この「大変化」は、集団の「集合意識」でも、或る程度まとまった数の個人の「意図」でも起こすことができます。これがまさに、これから本格化する、古い「現実」の融解、そして新しい「現実」の創造です。その推進力となるものは、数を増しつつある個人の意識の変容です。
この「現実」の変化とあいまって、DNA構成の変化を伴って、私たちの肉体の性質も変容します。これは、チャクラが活性化して、「光の情報パターン」が変化することによって引き起こされます。この変容は、私たちの創造性に新しい可能性を与えると同時に、「現実」を構成するホログラム(マトリックス)に圧力をかけて、その変容をさらに加速します。上述のホログラムの性質から分かるように、大宇宙(マクロコスモス)と人体(ミクロコスモス)とは、それぞれの反映なのです。
以上から結論づけられることは、私たちが「確かな現実」だと考えてきたものは、きわめて脆弱なものだということです。それは、それを構成する人々の「信条体系」によって、わずかに支えられているに過ぎません。それも、誤った「信条体系」あるいは「固定観念」によって。地球の科学が集めたデータや法則は「3次元のフィルター」の内側で、また「これまでの現実」を創造した「規範(エネルギーと意識の性質)」の枠内で、過渡的に通用してきました。しかしその枠内でも、科学が説明できないものは無数にあります。
ルイス・キャロルのこの小説を読むことは、「来るべき日々」の、格好の「予行演習」になります。「その日」には、アリスと同じように、周りに誰も居ないかもしれません。仮に居たとしても、次々に出現する不思議な状況を、的確に説明できる人ではないでしょう。アリスが、遭遇したすべてのものを有りのままに受け容れ、決して恐怖心を起こさず、刻々変化する状況に柔軟に対応し、そして健全な理性を失わない姿は、「その日」そして「それに続く日々」に、最も必要な資質です。
「来るべき日々」には、「学識」は何の役にも立ちません。「分析的な頭脳」や「現実はこうであるはずだ」という「固定観念」は、自分自身を刺す「トゲ」になるでしょう。明鏡止水の心で、ただ状況を見つめることができるかどうかが、分かれ目になるでしょう。心に留めておくのにふさわしい言葉は、「愛は有りのままを受け容れる」です。この意味で、「愛の鑑(かがみ)」をこの童話にみることができます。
邦訳は、矢川澄子の新潮文庫(181ページ、¥476[税別])を薦めます。「翻訳における創造性」の極致です。