愛なき地球温暖化対策

地球温暖化対策の 「交渉」 のため、京都に集まった関係者の心を窺うと、愛よりも打算が強く働いているようです。船が沈みかけているときに、捨てるべき荷物の多寡によって、利害を言い争っているような姿が見られます。 

関係者たちは、地球とその生命を気遣う、多くの市民の意思を代表するよりも、以下で述べるような、事実についての重大な誤解を、判断と行動の基準にしているようです。

温暖化の進行は、平面に置いた末広がりのスパイラルの様なものです。国連傘下の科学者グループ(IPCC)は、スパイラル(螺旋)の中心軸を2100年までトレースした予測を提出しました。それによって、温暖化は、いずれにしても遠い未来のことだと、印象づけることに 「成功」 しました。関係者たちは、対策を立てるべき期限と内容を、自分たちで自由に決められる(つまり、温暖化を人間がコントロールできる)、そして 「そのうちに」科学が問題を解決してくれるという、幻想を抱くようになりました。

その認識の延長で、1997年の温暖化防止京都会議は開かれました。地球の大混乱を願う勢力があるとすれば、この会議の最大の「成果」は、地球人類が自発的に行う対策の幅を、2012年まで事実上固定化したことだと、評価するでしょう。そしてそれが、中国、ブラジル、インドなど「重要な途上国(排出先進国!)」のコミットメント(実行の約束)もなく、抜け道だらけの形になったことを。

また、この会議では、リオ・デ・ジャネイロでの、5年前の約束がホゴにされた事実は、話題にもなりませんでした。そもそも、1992年6月の「リオ地球サミット」の合意の趣旨は、「先進国は2000年までにCO2の年排出量を1990年のレベルに戻すよう努力する」というものでした。それからわずか3年後の第1回締約国ベルリン会議で、その目標達成が困難であることを、北欧や経済困難に陥っている東欧諸国を除いて、ほとんどの先進国が表明しました。1990年から95年までに、先進国全体ののCO2排出量は約5%減りましたが、アメリカ、日本などは10%近く増加、両国で増加分の77%を占めました。これらの事実が、不問に付されたわけです。一方、排出量が既に大幅に減少し、先進国減少分の7割に貢献したロシアが、今回「自己申告」によって、2012年までの削減率を「0%」に「逆補正」しました。これは、会議で認められた「先進国間の排出権取引」において、アメリカや日本の格好のターゲット(「排出枠」の売買による「つけ回し」の対象)となる道を、自ら選んだもので、今回の「合意」が持つ性格を象徴しています。

温暖化の進行を止めるためには、温室効果ガスの排出量を増やさなければよい( 「安定化」 という不思議な言葉で表現されている)のではなく、森林や海水の吸収容量を考慮して、排出量を現在の半分以下にしなければならないーーという点で、科学者たちは適切な認識を示しました。しかし、中心軸ではなく、スパイラルの周辺部で起る現象こそが問題の本質だーーという事実を、明確にはしませんでした。中心軸で100年後に起る現象が、周辺部でいま起っています。酷暑と酷寒、多雨と干ばつなどの両方向への 「振れ」の増大は、相殺されて、これらの最も重要な事実が、平均値では捨象されてしまうのです。

もうひとつの重要な事実は、次の通りです。世界人口の4分の1にすぎない先進国が、CO2総排出量(62億トン、炭素換算、1994年)の約3分の2を排出しています。1人当りでは、先進国2.9トンに対して、発展途上国0.5トンです。もし途上国のすべてが、先進国の中で比較的エネルギー消費の少ない日本(2.4トン/人)を発展の目標にし、また先進国も対策により全体として日本に近づいたとすれば、世界の総排出量は現在の2倍を超えます(137億トン)。実際にやるべきことは、総排出量を現在の半分(31億トン)にすることです。これに対応する1人当りの排出量は、0.55トンですが、今後の人口増を考慮すれば、多くても 「0.5トン/人」が排出量の限界となります。これは、途上国の現在の平均排出量と同じ水準です。

途上国のこれまでの共通の立場は、今後の「意欲的な工業化」によって先進国の生活レベルに近づかなければならないのだから、それまでは排出についての 「権利」 を侵害することは認められないーーというものでした。しかし、現状で既に 「天井に突き当たっている」 となると、途上国はどうすればよいのでしょうか?ーーこれに対する明白な答えを示すことができなければ、何百回会議を開いても、地球全体としての有益な結論を導くことはできないでしょう。

答えは、ひとつだけあります。0.5トンの排出量で皆が生きていかなければならないから、これが先進国・途上国共通の目標になります。この排出量に対応する新しい生活様式を、「グローバル・スタンダード・オブ・ライフ(以下GSLと略記します)」として追求する場合に、初めて先進国と途上国が、真の意味で、「同じ土俵」に上がることができます。地球環境という資源を共有している人類は、「ワン・ワールド」 を前提として進めていくしかありません。

この問題を 「交渉」 によって解決しようとすること、そして「削減率」を交渉目標とすることは、良い結果を生みそうもありません。また、「排出権取引」 を認めると、本来客観化することの出来ない「排出枠」をめぐる「打算」を助長して、ますます 「愛」 から遠ざかり、複雑怪奇な二国間関係を生み出すだけのことです。言うまでもなく、地球空間に過大に蓄積されてしまった、温室効果ガスのほとんどは先進国の手になるものです。これら「負の遺産」への責任を考えても、1990年の排出量を「既得特権」として主張する理屈は、どこを探しても見つからないでしょう。

現状で、GSLレベル(0.5トン)からどれくらい離れているかをみると、総排出量の22パーセント(人口では5パーセント)を占めるアメリカは、10.6倍です。オーストラリア8.5倍、カナダ8.4倍と続きます。ドイツは5.4倍、日本は、4.9倍です。また排出量で世界第2位の中国は、1.4倍で既に上回っていますーーこれをみても、先進国が今回用意した「舞台装置(途上国を除き、先進国だけが1990年の排出量に対して数%ほどの削減を行う)」が、「砂上楼閣」に近いことが分るでしょう。「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」 は、とうてい世界の標準にはなり得ません、アメリカ自身にとっても。実際問題として、モデルはこの地球上のどこにもないのです。これだけの巨大なギャップを埋めることは、文明そのものの根本的な転換以外には考えられません。これは、人類にとっての、きわめて刺激的でチャレンジャブルな課題だといえます。

「出来ない」と言う関係者はいつも、消費物量と産業連関を現在のものに固定して、物事を考えています。最終需要者である「個人」が変れば、それは簡単に変ります(既にその動きは始まっており、パワーポリティックという旧来の解決手法しか人類が持ち合わせていないと思うのは、もうひとつの重大な誤解です)。その変化につれて、全体が調整されていきます。この間に、「競争原理」を「愛」が上回れば、何の苦もなく達成できるでしょう。ただ、残された時間は、僅かしかありません。

現時点で、文明の転換を難しくしているのは、アメリカという国の存在です。地球温暖化の問題は、さまざまの意味で、「アメリカ問題」 という性格を持っています。それは、ひとりアメリカの責任ということではなくて、この状況を創り出し、今なおそれに深く依存していこうとしている、すべての国の責任です。救うべきは途上国ではなくて、アメリカなのです(このシリーズの「アメリカはどこへ行く?」参照)。20世紀は、まさに 「アメリカの世紀」 でした。このドラマは、もう終りです。地球を、「アメリカ色]に染め上げることは、許されません。21世紀にその骨格を引き継ぐことは、あり得ません。しかし、それと知らずに、日々、地球と人類に対する巨大なカルマを貯えつつあるアメリカを、見捨ててはいけません。麻薬にのめり込んでいく友を、あなたは、見て見ぬふりをするでしょうか。あるいは、自分でも少しはお付き合いをして、相手の気持ちを楽にしてあげようとするでしょうか?

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[シリーズ第1部「混迷の星」の目次(contents)]
 

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