絶滅種のタスマニア・タイガー(タスマニア・フクロ狼の別称)が、今でも生きていると信じて捜し求める、男のロマンを描いた映画がありました。一人でやるからロマンで済みますが、国を挙げてこれをやると悲劇となります。
日本では、いわゆる「バブル経済」が崩壊した時点で、「景気(循環)」というものが「絶滅した」と信じるに足る十分な証拠がありました。しかし、根強い「景気信仰」が依然として支配的だったので、「現実」と「現実認識」との巨大なギャップのため、国全体が迷走する危険性があることを私は指摘しました(『タスマニアの羊』春秋社、1993年)。
結果は、ほぼ予見通りになりました。1990年代の日本において、「景気」という「絶滅種」を、国を挙げて追い求めたプロセスほど、この地球という星の混迷を象徴するものはありません。けれども「迷走政策」が、政策当局の思惑とは裏腹の、思いがけない「効果」を生んだ面もあります。後世の史家は、この間の施策を、「ドラスチックな手段によって国(地球)を守った」と評価するかもしれません。その手段とは、個人消費を押え込むという、地球環境改善の切り札を切ったことです。確かに、温暖化を始めとする地球環境問題を抜本的に解決するには、最終需要である個人消費の抑制(物的消費、エネルギー消費の抑制)によって、人間の経済活動に起因する排出・廃棄の総量を減らす以外に手段がないことは、逃れようのない事実です。
「切り札」の第一に、消費税の導入があります。もともと日本の風土になじみ難いこの制度を、国民的コンセンサスもなく(直後の選挙で与党が大敗)、短兵急に施行しました。更にその税率を、3%から5%に上げたことによって、5%の重みが、その差2%以上の「効果」を生みました。
第二に、資本主義経済体制を採りながら、その資金循環の最重要な要素の一つ、「利子」の機能を事実上抹殺したことです。「お金が回らない仕組み」を創案しました。循環系のなかの静脈系(預金金利)に栓をしたのです。その結果、動脈系(貸出金利)だけが一方的に存在するというイビツな構造のなかで、家計から金融機関への莫大な「所得移転」が恒常化しました。家計は消費に回すべき「原資」を奪われたのです。1996年度の国民経済計算によれば、家計部門の利子・配当などの受取額から支払額を引いた「純受取り財産所得」は、15兆6千億円と、1993年度の7割になりました。一方、金融機関のそれは、24兆3千億円(過去最高)と、同じ期間に、1.5倍になりました。これは、金融機関の「業務純益」に反映しています。こうして、不良債権の処理を進める「原資」を手に入れた日本の金融機関ですが、他方で外貨建て金融商品などへの「資金逃避」により、じわじわと苦境に追い込まれています(例えば、外貨建てMMFは1997年中に、6.5倍に膨らみました)。
既に1980年代から、日常生活の中で地球環境への配慮を重視する「低消費同盟」が、じわじわと広がっていました。「バブル経済」の崩壊とともに、これがライフスタイルの主流となって個人消費の足を引っ張り、「景気」を事実上「絶滅状態」に追い込みました。「地球温暖化」や「ゴミ問題」が、大きく浮上してきたことも、人々の消費についての判断を「補強」しました。加えて、一連の経済政策が、自らのスタンスを決め兼ねていた「どっちつかず層」を巻き込んで、「消費しない習慣」を国民に定着させ、最終的に「景気(循環)」にトドメを刺したのです。その絶大な効果は、まさに青天の霹靂です。劇薬の投入が、当事者も予想しなかった劇的な効果を生んだのです。これによって、日本国民は完全に酔いから醒めてしまったので、これからは、何が起こっても、どんな政策が行われても、決してかつてのバブル時代のような「高消費連合」に後戻りすることはないでしょう。もとより、地球温暖化防止対策としては第一歩にすぎませんが、少なくとも「野放図な拡大を止めた」という意味での評価にはなるでしょう。
問題は、行政当局が、自らがやっていることの意味を理解できず、現実を正しく認識できていないことにあります。温暖化防止対策の前進という「効果」があったのに、「政策効果が出ない」というサカサマの認識をしていることです。「景気」のことしか頭にないから、大局観を持てないのです。最大の誤りは、「景気(循環)の終焉」を「不況の局面に入った」と認識することです。行政が「消費の現場に手をつけた」分だけ消費レベルが下がるという「効果」は当然ありますが、それは「不況」とは違います。バブル経済の崩壊以降、「好況」であったことは一度もなく、また「不況」もありません(おなじみの「統計遊び」が、「好況」や「不況」を演出しているという事実はありますが)。人々が、「人間の普通の営み」をするようになっただけのことです。したがって、経済政策によって 「好況」を創ることはできず、また放っておけば「不況」になるわけでもありません。これを理解しなかったばかりに、無用な行政介入が「ツケの山」を築くことになり、それがまた新たなツケを生むという泥沼にはまりました。
1992年度から3年間だけでも、国家予算による約53兆円の「対策」が行われ、地方自治体も「右へならえ」をしました(この間、公定歩合は2.5%から0.5%に引き下げられました)。税収減を公債の発行で補って、予算規模も膨らませました。結果として残ったのは、国と地方自治体の膨大な負債です。1991年から現在までに、国債と地方債の発行残高は、それぞれ約2倍に増えて、279兆円および115兆円(1998年度末予算残高)となりました。 1999年度の当初予算によれば、1999年度末には、それぞれ327兆円(17%増)および127兆円(10%増)となる見込みです。このように、当初予算そのものに「景気刺激策」が織り込まれるのが最近の特徴です。これらの「対策」が、負債を増やすこと以外に、ほとんど何の効果も生まないことは、過去7年間の歴史がすでに証明しているのですが---。
結局、バブル経済崩壊以後の行政は、全体として、迷走を繰り返すうちにますます深みにはまっていったのです。それは、個々の政策の問題ではなく、「景気」という実在しないものを在ると信じ、(公共投資や低金利政策が内需拡大の原動力になるという)旧式な経済理論が今でも有効だと信じたことが誤りの根源です。したがって、この点で認識が狂っている限り、与党であれ野党であれ、誰が政治をやっても、似たようなことをやり同じようなツケを払う結果となったことでしょう。無いものを追い求めるこの循環は、ひとつのツケが新たなツケを呼ぶ仕組みになっているのです。
「景気」については、国民の側にも混乱がみられます。1998年12月に総理府が実施した世論調査では、72%の人が「景気対策」を望んでおり、同時に80%の人が、国の政策に民意が「反映されていない」と考えています(これだけ懸命に「景気対策」をやってきたのに!)。ところが、経済の原則からすれば、GDP(国内総生産)の6割以上を占める個人消費が伸びなければ、経済は拡大することができません。いわゆる「景気」を良くしたいと思えば、かつての日本で行われ、いまアメリカで行われている「熱狂消費」を出現させるしかありません。しかし日本では、国民の意思が「無用な消費はしない」と決めているので、行政の出番はないのです。行政も企業も労働組合も、「今が正常だ」という認識に切り替えなければ、1歩も前進することはできません。もうお気づきと思いますが、現在の日本では、雇用問題は、「景気」とは別次元の課題です。
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