社会の罪

日本で「荒れる小中学生」、アメリカでは”Juvenile Violence”。これが、同時多発するのは、「根っこ」を共有しているからです。偶然ではありません。その対策を求めて、個々の「朽ち葉」の解析にどんなに時間をかけても、決して本質は分かりません。

「根っこ」にあるのは、個人の「物質的欲望の飽くなき追求」を背景として、経済の規模を、どこまでも拡大するという「社会的要請」です。その推進力として、優勝劣敗の「競争原理」が用いられています。人生の前半においては、学校がその主要な「機能」を担い、社会が、それを当然のこととして認知しています。

子供たちは、限定された価値基準によって、ふるいにかけられ、時間軸の上で、次々と「合格者」と「落後者」とに振り分けられていきます。その結果、人生の極めて早い段階で、自分の将来展望や着地点を、その価値基準から与えられたセルフ・イメージに基づいて、狭い円の中に絞り込むことになります。大局から見れば、「合格者」にとっても「落後者」にとっても、これは幻想にすぎませんが、もともと情報の少ない子供たちの心に、甚大な影響を与えずにはおきません。

このシステムで、「合格者」になろうとして努力する動機は何でしょうか? それは、自分の利益のため、せいぜい親族や自分が属する小さいグループの利益のためでしょう。そうだとすれば、むしろ「落後者」の方を評価するべきかもしれません。しかし、限られた情報の中で、親や親族や教師やコミュニティーが創る「普遍的価値基準の泥沼」から、抜け出すことができない子供たちに、思考の幅を持ち、多様な可能性への展望を持つことを、期待するのは無理というものです。

こうした環境では、わずかの蹉跌をきっかけに、フラストレーションを爆発させる子供が出てくるのを、避けることはできません。根源は「社会システム」そのものにあるので、家庭や学校ができることは限られているのです。

ところで、子供たちにとってのこの環境と、そこで培われる「性向」は、それに続く実社会の状況とそこでの経験を含めて、すべて、目前に迫っている「次の時代」に移行する妨げとなります。なぜなら、そこで必要とされる「資質」は、これまでの「常識」とは180度異なるものだからです。

目をしっかり開けて、現在の社会を見れば、次の時代に移行するための「先駆現象」−−価値観の大逆転、上下・優劣の大逆転など−−を、随所に見ることができます。既にこれに馴れてしまったので、もっと激しい転換が、もっと急速に起こっても、案外驚かないかもしれません。しかし現状では、「時の流れ」に対して、大多数の人々の認識があまりにも隔たっているため、「スムーズな移行」が行われない懸念があります。

「次の時代」では、生活に最小限必要なモノやサービスは、すべてタダで提供されます。人々はそれらを供給するために、一日の僅かの時間を割き、残りを趣味や創造的な活動に当てることができます(現代の社会は、あまりにも複雑化しており、その「複雑」に奉仕するために、時間とエネルギーの大半を使っています。「実質」の部分はきわめて僅かです)。

このような社会で必要とされる「資質」は何でしょうか? それは、容易に分かるように、「物質的欲望の飽くなき追求」と「競争原理」の対極にあるもの、すなわち、「足るを知ること」と「奉仕の精神」です。マルクスとエンゲルスは、この最も重要なポイントを見落としていました。彼らの「資本論」や「唯物思想」に準拠した旧ソ連の共産主義は、初めから失敗が約束されていたようなものです(といっても、それに代わるロシアなどの「市場経済」も、成功からは程遠いものですが)。

望ましい教育は、「多様性の価値」を認めることが前提になっていなければなりません。まさに「多様性」こそは、この惑星地球の最大の特長です。生物種の「多様性」を守ることを大切だと思うなら、それ以上に、人間の「多様性」を重視してしかるべきでしょう。

子供たちが共通的して身につけるべきことは、上記の「資質」だけです。教育において、それ以外の部分は、それぞれの生徒が持つ潜在能力と興味の方向を、最大限に引き出す方法を発見することから始めなければなりません。したがって、基本的に「個人対応」となります。マスプロ教育でこなせる部分は、僅かしかありません。それが本来の教育というものです。このための投資は、社会にとって、真に「価値ある投資」となるでしょう。この地上で、「創造」の百花繚乱が見られるでしょう。 もちろん、これを実現するためには、教育に対する「社会の要請」が、抜本的に変わることが前提になります。

個人の「物質的欲望の飽くなき追求」を背景として、経済の規模をどこまでも拡大するという「社会的要請」が、究極的に何をもたらすかの事例として、ナウルの状況について考えてみたいと思います。この、太平洋赤道上の島嶼国では、現在、成人の40%が糖尿病にかかっています。欧米の白人での数字は、2〜5%です。日本の最近の調査では、血液検査の結果から「強く疑われる人」が8%ですが、実際に治療を受けている人は4%なので、ほぼ欧米と同水準と見てよいでしょう(急激に増えていることが問題ですが)。これと密接に関係する「病的肥満」の人は、欧米の成人(白人)の20%に対して、ナウルの成人女性は70%、成人男性は65%です。元々は糖尿病などと縁が無かったこの国が、なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか?

島を取り巻く珊瑚礁の内側の「不毛の台地」が、世界最高品質のリン酸塩を含む鳥糞石から成っていたことが、そもそもの始まりです。これは、鳥の糞が、長い年月をかけて濾過されて出来たものです。ご承知のように、リン酸塩は重要な肥料資源です。1907年から始まったリン酸塩の採掘が、この国を決定的に変えてしまいました。資源の品目は違いますが、ほとんど働かなくても収入が入るという、産油国と似たような経済・社会構造になったのです。いま、ナウルの一人当たりGDPは、アメリカやドイツ、あるいは産油国のクエートやブルネイに匹敵します。

ナウルのリン酸塩資源が、遠からず枯渇することは、決定的です。その後に残るものは、何でしょうか? 他の国と同じように、ナウルの人々も、「富裕」を懸命に追求してきたに違いありません。それは、「幸福」を実現するためだったでしょうが、結果として目的を達したと言えるでしょうか? これは、他人事ではありません。世界のすべての国が、「地球という資源」を相手に、はるかに大規模に、同じ事をやっているのですから・・・。

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