石舞台遺跡は超古代のパワーセンター

―特別写真読物―

 

2012430 小松英星   

 

同窓会で西下した機会に合わせて、以前からの懸案だった飛鳥の「石舞台遺跡」を訪ねました。

誰でも知っているこの遺跡を、こと新たに採り上げる理由は、この先に私たちが直面する事態に対処する一つのケーススタディになると考えるからです。

つまり、これまで信じ込まされ信じてきた「虚構」を乗り超えて、続々と現れてくる宇宙的真実に対してスムーズに心を開いていくことが、誰にとっても致命的な課題である時代を私たちは生きているのです。

 

さて、前日および前々日の同窓会は汗ばむほどの陽気に恵まれましたが、前夜に泊まった奈良市内ホテルのNHKテレビは、当日411日は1時間に4050ミリの豪雨に見舞われるとの予報を流していました。ご丁寧にアニメーションまで制作して、そのレベルの豪雨の恐ろしさを警告していたのです。

「そのおかげ」と言うべきか、午前9時半頃に着いた近鉄飛鳥駅前に人影はなく、ただ一人バスの運転手が、人待ち顔でバスの外に立っていました。

結局バスは私ひとりを乗せて発車し、途中で乗降した地元の人は23人いましたが、石舞台で私が降りると、そのさき橿原神宮前駅東口まで行くバスは無人となりました。

案の定、石舞台遺跡の来訪者はポツリポツリという程度で、天候は雨が降っても霧雨程度で風もなく、絶好の「観察日和」になりました。

ちょうど桜が満開のこのタイミングに、「何ともったいない」という思いもありましたが。

 

まずは以下の写真を、特に石室の天井を構成する2つの巨石を支える完璧な仕組みに注目しながら、ご覧ください。

ちなみに、南側の巨石(巨石A とします)は77トン、北側の巨石(巨石B)は64トンで、天井石の合計は約140トンと見積もられています。

また石室の寸法は、長さ7.8m、幅3.4m、高さ4.8mです。

 

【注】以下の画像はクリックすると拡大します。ブラウザの〔戻るボタン〕を押すなどして戻ってください。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI01_thumb_1.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI02_thumb_1.jpg











@石舞台遺跡の全容(西面)   A南西面(右方に地下石室への入口がある)

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI03_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI04_thumb.JPG

B南東面(左方に地下石室への入口) C南側天井石(巨石A )を支える石組

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI05_thumb.JPG

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI06_thumb.JPG

DE地下石室への降り口付近から参道を見る(中央のラインは排水路)

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI07_thumb.JPG

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI08_thumb.JPG

F石室の南側(人物の先は参道) G同・右側面(西面)の石組

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI09_thumb.JPG

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI10_thumb.JPG

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI11_thumb.JPG

H石室の北側  I2対の天井石は手前(南側:巨石A)と奥(北側:巨石B) J北東隅上部の石組

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI12_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI13_thumb.JPG

K全容(西面)      L:Kに見える説明パネルの上部付近の石組

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI14_thumb.JPG

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI15_thumb.JPG

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI16_thumb.JPG

M2対の天井石を支える構造(西面) N北側天井石(巨石B)を支える石組 O南側天井石(巨石A)を支える石組

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI17_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI18_thumb.JPG

P北西面               Q:Pの左角にある北側天井石(巨石B)を支える石組

 

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI19_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AI20_thumb.JPG

R全容(東面)            S:R中央部の構造

 

 

以上でご覧いただいた石舞台遺跡(いわゆる「石舞台古墳」)の構成は、工学的にほとんど不可能に近いことを成し遂げています。

遺跡入口(料金所前)のパネルにあるような幼稚な推論は、少し考えれば説明になっていないことが分かります。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref1_thumb.jpg

(r):入口パネルにある天井石設置法の説明

 

写真Fで見られるように、側面の石積みはほとんど垂直です(写真Hは天井を写すために低い位置から広角モードで撮影したもので、実際とは違って見えます)。

そして、側壁の全体は3段積みですが、特に1段目と2段目は巨石23個を並べてあり、両側の側壁の上に2個の天井石(巨石AB)を載せることによって側壁を下向きに押す強い力を得て、水平方向から受ける力(水平土圧)に対してびくともしない強固な構造を実現しています。

このような狭い空間で、巨石を使って垂直な側壁を構成するだけでも容易なことではないはずですが、巨石ABの定置は特に問題になります。

この課題は、例えば日本で見られる、他の巨石構築物にも共通しています。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref2_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref3_thumb.JPG

(r2):巨石を支える石組(松山白石の鼻巨石群) (r3):同(宮島巨石群:後世に付加された建物の一部が写っている)

 

このような構造を、特に石舞台遺跡のような巨石による天井構造を(人力で)実現する方法は、次の2つしか考えられません。

@精密な立体設計図に基づいて、巨石を支える石(群)を事前に正確に配置し、その上に空中から巨石をゆっくり降ろして載せる。

A主要な支持石だけを事前に構築しておき、その上に巨石を仮置きする。次に隙間を埋めて安定させる石(群)を用意して定置する位置を決めた上で、巨石を少し上方に浮かして石(群)を挿入し、それらの上に巨石を降ろす。

――ちなみに現地では30数個の大小の石たちが、それぞれの役割を整然と果たしており、例えば楔形の石を強引に打ち込んだような痕跡はどこにも見られません。

 

いずれにしても、「(石舞台遺跡の巨石ABのような)巨石を浮かせる」技術または能力を持っていることが条件で、実際に、そうした能力を会得しているスペシャリストの集団が、歴史のある時期に世界各地で、こうした巨石構築物を建造したと考えられます。

 

ここまで聞くと誰でも、日本に無数にある古墳は一体どうなっているのだ、とお考えになると思います。

結論を言えば、少なくともこれまで詳細が確認されているものは、規模の大小を問わず、石舞台遺跡とは全く別物です。

石舞台遺跡は「古墳」ではありません。だから、1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)が中心になって行った発掘調査で、「石棺」が発見されなかったのです。

なお、現在見られるような姿に整備が行われたのは、1954年(昭和29年)から1959(昭和34)にかけてです。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref4_thumb.jpg

(r4):石舞台遺跡周辺の発掘状況

 

この写真は発掘状況を示すものですが、「発掘」の名に値する調査は、むしろ周辺部に存在した中小の「(正真正銘の)古墳」に対して行われ、石舞台遺跡には「手を付ける余地がなかった」ことを上の写真は示唆しています。

もちろん、「石棺探し」を行うために、石室の大半を埋めていた「(周りの隙間から侵入した)土砂」を取り除く作業や、完全に埋まっていた参道を露出させる作業などは行われたとみられますが。

 

ご存知のように、日本には「大仙陵[だいせんりょう]古墳(いわゆる仁徳天皇陵)」のような大規模な古墳が少なからずありますが、問題は「盛り土(墳丘)」の規模ではなく石室です。

大仙陵古墳に関して僅かに残っている記録では、石室には長持形石棺を納めてあり、石室の長さ3.63.9メートル、幅2.4メートルで、周りの壁は丸石を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている――という程度のものです。

 

石室の規模で石舞台遺跡を上回るといわれる、「真弓鑵子塚[まゆみかんすづか]古墳」の内部の様子を次に示します。

【注】次の画像はクリックしても拡大しません。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref5.jpg 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref6.jpg

(r5):石室の構造(真弓鑵子塚古墳)    (r6):同

 

ご覧の通り、「持ち送り式(穹窿式)」と言われる、積石を順に内側へせり出させる方式で、室の断面は半球に近くなります。

そして、「横穴式の古墳」のうち、このような持ち送り式」に共通しますが、石室の上部に大量の盛り土をすることが、この構造を安定的に保つために不可欠の要素で、石舞台遺跡とは構造的に似て非なるものです。

【注】以下の画像はクリックすると拡大します。ブラウザの〔戻るボタン〕を押すなどして戻ってください。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref7_thumb_1.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref8_thumb_1.jpg

(r7):石室の展開スケッチ(石舞台遺跡)    (r8):同(真弓鑵子塚古墳)

 

「石舞台」は、そもそも覆土を必要としない設計になっています。実際に、建造当初から「むき出し」にする計画だったでしょう。したがって、天井石の隙間から雨が流れ込むことを想定して、排水路を設けたのです。

 

なお、1991年の一般人による盗撮事件で有名になった「見瀬丸山[みせまるやま]古墳」も、石室の規模は石舞台遺跡を上回るとされていますが宮内庁の所管で、第三者による調査は行われておらず、石室の(特に天井石の)石組などの詳細がわかる写真はありません。

この古墳の開口部が、その盗撮事件のあと1992年に完全に閉鎖される際に、宮内庁によって行われた簡単な調査による石室の展開スケッチには、「石舞台」との共通点が見られます。

それには、これまで他の古墳については作成されたことのない、天井石のスケッチも添えられています。しかし石室内部からのスケッチなので、それら天井石の厚さや全体形状は不明です。

また、公表された写真や展開スケッチに見られる石室正面を構成している巨石は、球体に近いように見えるので、そうだとすると相当な重量になります。しかしこれは、「(石舞台で構築方法が問題となる)天井石」ではなく「壁石」の一部です。

 

ちなみに床面積は見瀬丸山、真弓鑵子塚、石舞台の順に34u(8.3×4.1)、28.6u(6.5×4.4)、26.5u(7.8×3.4)、そして高さは4.5m4.7m4.8mです。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref9_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref10_thumb.gif

(r9):見瀬丸山古墳石室の展開スケッチ       (r10):同、石室正面の写真

 

【注】いずれにしても「見瀬丸山」は謎に満ちています。

天武・持統合葬陵と「比定・治定(陵墓と決定)」されている「野口王墓(のぐちおうのはか)」との間で比定が二転三転した歴史があり、欽明天皇陵とする「学説」もあるようですが同天皇陵は「梅山古墳」に比定されており、現在の比定にはそれなりの根拠があります。したがって、「見瀬丸山」は天皇陵ではなく、宮内庁の「陵墓参考地」という指定になっています(名称:「畝傍陵墓参考地」)。

要は、確かに内部に石棺が2個あるが、被葬者を特定するに足るデータが存在しないのです。

欽明天皇陵(あるいは蘇我稲目の墓)とする「学説」は、「古墳」にこだわって苦し紛れに生み出した「こじつけ」でしょう。

もしかすると、もともと「石舞台」と同様のものが古くから存在しており、それを古墳として「有効活用」するために、「(構造上は必要としない)墳丘」を(後付けで)築き、そこに石棺を次々と(合計2個を)持ち込んだのかもしれません。ちなみに、それぞれの石棺は、その様式などから製作時期が違うとされています。

現地を研究者に開放し、本格的な学術調査を行うことが望まれます。

 

 

ここで、歴史学者の故・喜田 貞吉(きた さだきち)博士(1871-19391896年 東京帝国大学文科大学卒業)に登場していただきましょう。

同氏は歴史学研究の延長として古墳の研究にも精励され、時代考証や実地踏査を含めて、大変ユニークな見解を学会に提起されました。

以下に引用する論考は、明治中期から昭和初期の頃、「石舞台遺跡」がどういう状態にあったかを知ることのできる、たいへん興味深い読み物になっています(底本:喜田貞吉著作集 第二巻 古墳墓年代の研究、平凡社1979年初版)。

それぞれの引用に、私の解説を付記します。

 

――《問題に上れる墳墓は南向にして、もとは一大石槨を蔽いたる円塚なりしがごときも、今は盛り土の全部を失いて、槨を組み立てたる巨石のみがドルメンとなりて残存せるのみ。ただしその石材の全部がことごとく露われたるにはあらず。その裾の方の大部分はむろん土中に埋まり、土砂は玄室および羨道の内部にまで流れ込みてこれを埋め、わずかに玄室の天井石および四壁を作れる巨石の上部のみが地上に露出せるに過ぎず。要するに、石槨を組み立てたる巨石の高き部分のみがドルメンとなって露わるるのみ

 

喜田氏は、石舞台遺跡は「墳墓」つまり古墳と認識されていたので、本来あるはずの「盛り土」が失われていると観察しています。

その状態は、「石室(古墳の場合は玄室:げんしつ)」や「参道(古墳の場合は羨道:せんどう)」の大半は土砂に埋まり、「わずかに玄室の天井石および四壁を作れる巨石の上部のみが地上に露出」しているに過ぎないので、いわゆるドルメン形状の石の配置に見えるわけです。

 

――《石槨の内部は前すでにいえるごとく、石材の間隙より流れ込める土砂にて深く埋まり、もとよりその底部を見るを得ず。羨道のごときもその入口塞がり、這い入ることすら能わざるなり。ただわずかに玄室の右壁と後壁(東北隅)との間に空隙あり、身を屈してそこより室内に入り、もって内部を調査する得。玄室内に立って羨道部を望めば、羨道の天井に近き部分のみわずかに開け、これも玄室同様深く土をもって埋められ、その中を覗くことすらも能わず。

 

石室の内部は土砂に埋まっているので、前掲の〔写真HIJ〕に見られる「すきま(空隙)」から何とか中に入ることは出来たが、石棺があるかどうかなど内部を調査する余地はない、もちろん参道(羨道)は〔写真F〕に見られる開口部の「天井に近き部分のみわずかに開けいるに過ぎない。つまり参道の本体は完全に埋まっているので、そこから入る余地もない、と言っています。

この実地踏査が行われた時期は、もちろん、1933年と1935年に京都帝国大学が行った調査より前のことしょう。同氏は大正年間の1913年から1924年にかけて、専任講師および教授として同大学に在職(その後は東北帝国大学で古代史・考古学を担当)されているので、その期間かも知れません。

したがって同氏は、「掘れば必ず石棺が出る」ことを確信していたはずです。

 

――《しかしてこの島の庄なる石舞台は、まさに五条野の重定のとの中間に位するものにして、今日学界に知られたる石槨中、実に日本第二の大きさのものなりというべきなり。しかも右の第一に数うべき五条野の、わずかに古人の調査せるものあるのみにして、今日これを見るを得ざるものなれば、余輩が古墳墓研究上親しく調査し得べく、かつ最も信を置くをべきものにては、実はこの島の庄石槨をもって最大なるものとなさざるからず。

 

ここにいう「五条野」とは、(その主要部が橿原市見瀬町ではなく同市五条野町に立地する)前記した「見瀬丸山古墳」のことですが、宮内庁の所管になっているため「今日これを見るを得ざるもの」なので、検討対象外としています。

また「重定(しげさだ)」については、別の箇所に「余の親しく調査せるものの中には、この石舞台を除いては、古来有名なる筑後浮羽郡椿子村重定のもって最大と」とあります。

 

――《要するに島の庄の石舞台は、

 一、その石槨として甚大なる点において、

 二、その用材の甚大なる点において、

 三、盛り土を除去せるがために石材の積み工合をよく観察し得る点において、

右の(上の)三個条より、余輩はいわゆる石舞台をもって考古学上最も大切なる標本の一として推奨せんと。しかのみならず、その所在の島の庄の地の歴史的関係よりして、すでに述べたるごとく余輩は歴史地理学上特殊の興味をもってこれに対するものなり。

馬子の邸宅がこの近地にして、その墓の所在たる桃原またこの地方なるべきうえに、馬子の桃原墓には別に取り出でて述ぶべきほどの異事あるにあらざるにかかわらず、『曰本紀』がこれを特書せることより見るも、必ずやその墓が特別に著しきものならざるからざる等、種々の事情を綜合して、しかしてこれに対してこの墓がかく日本に一、二を争うほどの巨大なるものなりとの事実は、桃原墓とこの石舞台とを接近しむるに十分有力なる証拠となるべきものなりと

 

ここの前段に書かれている、石舞台遺跡に一目も二目も置いた評価は、現地を見た多くの方が同感されるのではないでしょうか。

しかし後段では、それを蘇我馬子の墓と見なすとする「根拠薄弱な記述」があります。

これは『日本書紀』の626年の箇所に、大臣(馬子)が死去して「桃原墓に葬る」と書かれていて、馬子の邸宅が近くにあり、石舞台遺跡のような大規模な「墓」を造らせ、それを日本書紀が特記するほどの権力者は馬子しか考えられない、というものです。

 

――《この石舞台をもって馬子の墓に擬するは、必ずしも余輩のみにあらず。すでに『日本書紀通証』これを言え。曰く、「島の庄村に荒墳あり、疑らくは是桃原墓」と。しかしながらこの説多く世人の注意するところとならず。大和の地誌かつて一もこれを言えるものなし。まれにこれに着目するものあるも、しかもいまだこれを賛するものを見ず。故飯田大人の『日本書紀通釈』にはこの説を引きて、しかも「信じ難し」として排斥す

 

上記の「被葬者=馬子」説は、古く『日本書紀通証』(1748年)でも唱えられているが、それに注目し賛同する者は少ない、と書いています。つまり、第二次大戦前の日本では、今日とは違って、「馬子説」は定説にはなっていなかったようです。

それとは別に、上記で注目されるのは、「島の庄村に荒墳あり」という『日本書紀通証』の記述です。江戸時代中期にそれが書かれた頃には、石舞台遺跡は「荒墳」になっていた、つまり見捨てられ荒れたままになっていたという事実です(次項にも関係)。

 

――《石舞台の名義は何を意味するか、かく見事なる墳墓たるにかかわらず、地誌その他の書のこれを記するものく、したがってこれに関して説明を下したるものを見ず。あるいは思う、この石槨もとは盛り土に蔽われて人目を引かず、後にいうがごとく、現今のごとくドルメン状をなせるは比較的近年のことにはあらざるか。延宝年間の著なる『和州旧蹟幽考』には、浄見原宮の事を「細川村より四、五町西なり。」と記して、さてその次に、その近き所に石太屋とて陵あり、とあり。記事きわめて簡単なれども、石太屋《いしぶとや》の名は看過すべからず。今日いわゆる石舞台の名称が、この石太屋の転訛なることは毫末の疑いを容れざるなり。しからば石太屋とはいかなる義か。これまた理由不詳なれども、あるいはその文の示すごとく、大石をもって作りたる屋というほどの意味ならん知るからず。

この荒境が現今のごとくに石材を露出していわゆるドルメンとなれるは、果していつのころのことなるか。この近傍には都塚を始めとして、類似の形式の墳墓多きも、いずれも盛り土をそのままに存し、かくドルメンとなれるものあることなし。果してしからば、これは決して風雨などの作用により自然に積土を崩壊し、かくのごときの現状をなすに至れるものにあらずして、必ずやその付近の地を開墾して稲田となすに際し、妨害となるべき塚を取り崩して、しかもその用材のあまりに宏大なるがために、これをのみ取り残したるものと解すべきものならん。

 

ここの前段で注目されるのは、「地誌その他の書のこれを記するものく、これに関して説明を下したるものを見ず」というように、石舞台遺跡はかなり忘れられた存在だったことです。

ただ地元では「石太屋(いしぶとや)」という名で知られていたようで、江戸時代初期の延宝年間の書物(『和州旧蹟幽考』)が、「浄見原宮」の道案内に関係して、きわめて簡単に触れていると言っています。

この「石太屋」というネーミングは、地元の人が、それを「古墳」と見るよりは、まさに実物通り「石造の大きな屋(=屋根)」という認識であったことを示唆しています。別に「石蓋(いしぶた)」という、もっと即物的な呼び名もあったようです。

もし石室の中に石棺があることを知っていたら、このような呼称は出てこないでしょう。「石太屋」がなまって「石舞台」になったという推論は、適切と思われます。

一方、後段では、「盛り土」が失われた古墳は他には見当たらないので、「失われた(消えた)」のは自然現象ではなく、付近を開墾して稲田とするために墳丘を崩した人為的なもので、その際に巨石群は大きすぎて手が付けられなかったろうと推測しています。

「盛り土」が失われたのは、一部の学者が主張する「風雨などによる自然現象」ではない、というのは一つの見識です。しかし「古墳」である以上そのままでは困るので、上のように推測したのでしょう。

 

 

【総括】

以上を総じていえば、石舞台遺跡に関する「権威筋」の見解は、すべてが「あべこべ」になっています。細部は違っていても、根本的な部分は、すべて共通しています。

現地には「石室(古墳の場合は玄室)」があり「参道(同、羨道)」もあり、国内には同種のものが多数あるから、これは古墳だとする「強固な予断」をもとに、どれもこれも、つじつま合わせの「こじつけ」として組み立てられています。

まさに「石舞台」は、壮大な「虚構の舞台」になっているのです。

 

(1)「古墳」だから、当然「石棺」があるはずだ。無ければ説明がつかないので、出土したわずかな石の破片を「石棺の破片」と断定し、何の客観性もない「レプリカ(実際に南側の土手に展示されている)」まで作ってしまう。そして、ますます集団暗示が強固になり、「石棺があったのなら、その石棺は(被葬者の骸骨や副葬品と共に)どこへ消えたのか」を誰も問題にしなくなる。

(2)抜き出たスケールの「古墳」だから、被葬者を確定しなければ気が済まない。特に石舞台古墳のようなものは、天皇か相当な権力者でなければならない。そこで適当な権力者の、つまり蘇我馬子の、墓だということにしてしまう。

(3)他の「(正真正銘の)古墳」と同じように、「玄室」と「羨道」を持っているから、古墳以外のものではありえない。したがって、日本でいう「古墳時代(3世紀後半から7世紀後半)」に造られたものだと断定してしまう。そして馬子の墓ということにしてしまったから、年代は馬子の死の時点(626年)によって決まり、他の可能性はない。その結果、石室と垂直方向に並行する地層を掘り下げて木片などの有機物を探し、「放射性炭素14年代測定法」などによって年代を検証する必要があるとは誰も考えなくなる。

(4)「古墳」だから、「土盛り(墳丘)」がなければならない。したがって、自然現象で墳丘が消えることは考えにくいので、何者かが土を運び出して田畑の開墾などに利用したはずだと考えてしまう。日本に古墳は何千もあり、ここだけにそれが起こることがあり得るでしょうか。「石舞台」が築造されたとする7世紀以降には、古墳に対する認識はかなり浸透していたはずなので、日本人のセンチメントも考えれば、少なくとも集落を挙げて行うような「古墳取り崩し」の大事をやるわけがないことは常識の範囲でしょう。

(5)「古墳」だから、例えば「前方後円墳」のような一定の形式で造られているはずだ、だだから「上円下方墳(じょうえんかほうふん)」という様式を与え、石舞台遺跡がある台地は確かに「方形」だから、巨石構造物の全体を覆う「円形」の墳丘があったことにしてしまう。

 

以上の(1)から(5)は、すべて「石舞台は古墳」という予断に合わせようとした「こじつけ」です。

人は、最大でも三次元物理学の枠内で、自分にわかることしか理解できない。

したがって、合理的な説明ができないものに対しては、視座を「枠外」に移して意識を拡大する必要があります。

まず、次をご覧ください。

 

――(A)ぼくたちはまた、母なる地球の生命の本質と、その身体である地球上の、特別なパワーセンターについても教えただ。そこは、次元間のベールが最も薄くなっているエネルギーポイントだ。そして、こうした場所が将来もわかるように印を付ける方法とか、その位置を感知する方法も教えた。詠唱やダンスも伝授したけど、これらをそこで演じることで、強力なエネルギーを十分に利用することができるだ。このエネルギーが過剰なら、特別な石でできたエネルギー貯蔵器に蓄えることもできた。それをぼくたちの指導の下で適切な場所に置いたから、ぼくたちや他の多次元的存在は、必要なときにそこからエネルギーを引き出すことができただ。 

今日の地球の人たちは、こうした石のエネルギー貯蔵器を、古代の天文台としか見ていない。それらが日の出や夏至・冬至のような至点や他の惑星などと、入念に合わせて造られていることには気づいているからね。でももともとの目的は、天体と地球の両方のエネルギーを目いっぱい集め、貯蔵することだっただ。それに、使われる石のタイプもとても大事だった。

蓄えられたエネルギーを引き出すことで、ぼくたちは三次元の地球の領域で、強くて活力ある肉体を維持することができたわけさ。またそれによって、若い地球人たちも、自分たちの精神的な満足と向上のために、もっと高く精妙な周波数の宇宙エネルギーを利用することができただ。(『アセンションものがたり(下)』)

 

――(B)エジプトのピラミッドのうち、ギザの大ピラミッドの目的の1つは、アセンションのために、修行者たちの波動を上昇させる場所とすることだったようです。

したがって王墓ではなく、古王国第4王朝のクフ王が造らせたものでもありません。

建造年代も、クフ王に関連付けられているBC2550年よりはるかに古いもので、他の2つ(カフラー王とメンカウラー王のピラミッドと呼ばれている)と共に、少なくともBC10,000年にはそこに存在していました。つまり、「記録された歴史」に登場する人々の手になるものではありません。

ギザの3大ピラミッド特に大ピラミッドは、天文的地勢的立地、規模、構造、精度、堅牢性など、どれをとっても他のエジプトのピラミッドとは別種のもので、厳密に検証すれば、現代の技術でも建造は不可能であることが解かります(シリウスの支援で造られたものとみられます)。

その他の60基に及ぶピラミッドはすべて、元々あった3大ピラミッドを真似た「駄作」なのです。

したがって、「ギザの3大ピラミッドを頂点として技術が急速に衰えた」と、正統派のエジプト学者も説明するしかないわけです。

今でも公式にはクフ王が造ったとされている理由は、第1発見者(英国人考古学者ハワード・バイス)が捏造した可能性が高い、「クフ」という落書きを、エジプト学者たちが短絡的に信じただけのことです。また、カフラー王とメンカウラー王は、既にあったものを「横取り」したわけです。

ギザの3大ピラミッドに新しい光を当てた代表的な著作として、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』とアラン・F・アルフォードの『神々の遺伝子』があります。Q&A’02c・「古代ロマンとピラミッド」)

 

――(C)地球の年齢は、公式の見解の誰のものより、はるかに古く、何十億年の間、自然だけが間断なく続いてきた要素です。現代人は、あなた方の惑星でこれまで見られた中での最も洗練された人種では決してなく、人類は太陽系での最初の知的生命体でもありません。地球上や宇宙で見られる不可解な人工物は、今日の科学が認識しているよりはるかに早い時代に、高度な知識を持つ古い文明があったことを示しています。現代人は進化の階段の先頭にいるわけではないという、豊富なたいへん面白い証拠があります。しかし、何千年にわたって、多様な種類の知的生命体たちが、あなた方と継続的に地球を分かち合ってきたという秘密を、ごく一部の人々だけが内々に関知してきたのです。

 

今日の科学が認識しているよりはるかに早い時代に、高度な知識を持つ古い文明があった」ことについては前にも触れましたが、地球に関しては、その典型は、誰でも知っているギザの三大ピラミッドやテオティワカンのピラミッド群でしょう。様々な分野の研究者による近年の精力的な調査で明らかになったことは、これらの建造者は、数学的・幾何学的に精緻な全体構想と詳細設計を予め持っていて、設計通りに寸分違わず実現させる能力をも併せ持っていたという事実です。もちろんそれには、人工衛星を使った今日のGPSGlobal Positioning System)に匹敵する地球スケールの測量技術や、遠方から巨石を運搬して空中から所定の場所に定置させる技術も含みます。(「光へ向かう地球と人類:『パス・オブ・エンパワーメント』解説」副読本)

 

――(D)話を戻して、アトランティスに存在したある建造物について説明しよう。これについてはあまり言及されず、情報も提供されていないようである。

この建造物は、丸い形状で、内部は空洞になっており、入り口が一つある。直径は12メートル、高さは25.5メートルある。建物の先端はピラミッド状クリスタルになっていて、ドーム状に多面カットされた側が上を向き、ピラミッドの先端側が建物の底を向いている。

建物内部の壁にはくぼみが何重にも形成され、その数は数百個に達する。この建物は「進化の家」と呼んでもよいだろう。というのは、ここは長老たちがきて、座って瞑想したり、沈思黙考をする建物だからである。この建物は、彼らがなすべき仕事に関して指示を受け、将来に備えて準備をするのにも利用されていた。

この部屋に流れ込む波動は、きわめて高いものであった。アトランティスの終末が迫ったとき、多くの長老は、この建物にきて、彼らのエネルギーを再同化することによってアトランティスを離れたのである。彼らは、世界各地での自分の将来の生活や任務に備えていた。

アトランティスは一種の学校であり、未来の地球で達成されることを長老たちに知らせるための準備場所であった。そして、教育、学習、同化吸収はすべて、この丸い建物の中だけに制限されていた。(フランク・アルパー『アトランティス』1994年初版、現在絶版)

 

 

石舞台遺跡の評価に関しては、さまざまな意味で、エジプトにある「三大ピラミッド」についての「近年の新しい知見」が光を与えてくれます。

石舞台は日本版の大ピラミッド」――こう考えると、「石舞台」をめぐるすべてが、たいへんクリアになります。

どちらも、@目を奪うような「巨石構築物」で、A「参道」と「石室」が存在します。しかしB(一部の学者の主張とは違って)「墳墓(古墳)」の要素は見られません。C「本物(石舞台/三大ピラミッド)」の周辺に多数の「類似作品(古墳/ファラオの墓)」が存在します。そして、D構築の目的・役割と構築時期についての「誤解が蔓延」しています。

 

大ピラミッドについて、以上に関係する「近年の新しい知見」は無数にありますが、ここではグラハム・ハンコック『神々の指紋(下)』(1996年初版)から要所のみを引用します。

【注】次の画像はクリックすると拡大します。ブラウザの〔戻るボタン〕を押すなどして戻ってください。

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref11_thumb.jpg

説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: 説明: F:\gaia-as\AIref12_thumb.jpg

(r11):ギザ三大ピラミッドの配置        (r12):大ピラミッドの通路、通気口、石室の詳細

 

――(E)古くから伝承によると、ピラミッドの建設者はこの倉庫に、「鉄製品や錆びることの無い武器、曲げることのできる割れないガラス、不思議な呪文・・・」を納めたという。

だが、マムーン総督も部下たちもなにも発見できなかった。世俗的な宝物もなかったし、ハイテク機器も、時代を間違えたようなビニール素材の製品も、鉄製品や錆びない武器も・・・不思議な呪文も見あたらなかった。

女王の間という、誤解を招くような名前がつけられた部屋もまったく空で、地味な幾何学的なデザインの部屋にすぎない。

さらに失望をもたらしたのは王の間で、興味深いものはなにもなかった。そこにあった家具と言えば玄武岩でできた人間の身体が入る大きさの石棺だけだった。たいした理由もなく「石棺」と呼ばれるようになったこの殺風景な石の箱は、近づいたマムーンとその部下たちを狼狽させた。大ピラミッド内部の他のものと同じように、蓋もなければ中も空っぽだったからだ。

 

――(F)「インベントリー石碑」と呼ばれるこの石碑は、19世紀のフランス人考古学者オーギュスト・マリエットがギザで発見したものだ。この石碑に書かれていることは衝撃的だった。スフィンクスも大ピラミッドも、クフ王が王位につく遥か昔から存在していたということがはっきりと書かれていたのだ。碑文は女神イシスにも触れており、イシスのことを「ピラミッドの女王」と呼んでいる。つまり、ピラミッドは魔術の女神イシスに捧げられたもので、クフ王ではないということになる。さらにクフ王の墓は大ピラミッドではなく、その東側の脇にある三つの補助的建造物の一つがそうだと強く示唆している。

 

――(G)墓泥棒説を支えているのは、ミイラや埋蔵品がなかったという事実だけだ。だがそれも、かつて財宝が埋蔵されていたと勝手に想像しているに過ぎない。他のすべての証拠、とくに大ピラミッドの場合は、盗掘がなかったことを示している。それは単に、井戸のような縦坑があまりにも狭く、大きな宝物を運ぶのに適していなかったということだけではない。クフ王のピラミッドのもう一つの重要な点は、大ネットワークを形成している大回廊にも部屋にも、碑文や装飾がまったくないことだ。同じことはカフラー王やメンカウラー王のピラミッドに関してもいえる。これらの驚くべき建造物には、この中に眠るはずのファラオを賛えるような言葉が一つも書かれていないのだ。

これは珍しいことだ。エジプトの王墓で、装飾が施されていない墓はこれまで見つかったことがない。エジプトの歴史を通じて、ファラオの墓は徹底的に装飾され、上から下まで美しく塗装されている。また壁には死者が永遠の命を得る旅に必要な、儀式の言葉や神への祈りが綿密に彫刻されている。

 

 

「大ピラミッド」も「石舞台」も、「人工物」であることは誰の目にも明らかですが、どちらも工学的には不可能に近いことを可能とする「異端の技術」が使われるようにみえます。

それに対しては、その部分に光が当たらないように、人々の関心を逸らす「別の筋書き」が用意されてきたのが、これまでの歴史だったと言えるでしょう。そのような意図はなかったとしても、研究者たちの「誤った思い込み」が、結果としてそれに寄与したことは間違いありません。

 

「異端の技術」に関して、『神々の指紋』には、こういう記述もあります――《それとも神官や魔術師が「呪文」をつぶやいて軽々と大きな石を浮かせたという古代エジプトの伝承には、学者が考えているよりも信憑性があるのだろうか?

また「大ピラミッド」の、正確に東西南北に合わせた配置、斜面の角度52°に対する上昇・下降通路の角度26°(52÷2)という設定、また高さに対する周辺長の比率が[2π]という設定([2π]は地球の半径と外周との比で、斜面の角度52°の場合のみ可能)など無数に織り込まれている「数学的驚異」を、「石器時代(クフ王の時代)以前」の地球人類だけで成し遂げたと考えるのには無理があり、「宇宙同胞からの支援」があったと考えるのが順当なところでしょう。

 

上に引用した(A)の会話は、次のように始まっています。つまり「シリウス人のシレイナス」が語っている箇所なのです。

――《アシュカーは当惑したように首を横に振った。「でも地球人に常識があれば、もし私たちが彼らにとって脅威なら、とっくの昔に彼らの惑星を乗っ取っていたはずだと気がつくじゃないかしら」それから、私たちのシリウス人の友人のほうを向いて言った。「シレイナス、あなたはずっと初期のころの地球にいたのよね。あなたたちの仲間にとって地球はどんなだったの?その当時もこうした恐怖やエゴがあったのかしら?」

「最初のころはなかったよ」と彼は答えた。「ぼくたちの種族はそこで、きみたちゼータの仲間といっしょに地球の人間種族の開発に携わっていただ。だからいくつかの伝説では、ぼくたちは角のある神とその妻の母なる女神としてとても大事に記憶されているだ。・・・

 

そして、それらを構築した年代については、「大ピラミッドは少なくとも1万年以上前」という推定には確かな裏付けがあります。

また「石舞台」は、全世界に分布する他の巨石構築物の年代から推定して、数千年以上前の「縄文時代」に構築されたものでしょう。したがって、日本の「歴史時代」が始まった頃には、すでに「荒墳」のように、あまり注目されない存在になっていたと考えられます。

 

そこで、「石舞台」の目的は何でしょうか。

それは基本的に、上に引用した〔A)〜(D〕の内容と同じでしょう。

まさに日本の地に降ろされた「パワーセンター」かつ「イニシエーション(通過儀礼)の場」で、人々は、そして宇宙からの訪問者も、そこで自らの波動を上昇させ、インスピレーションを受け、リフレッシュやヒーリングを行っていたと考えられます。

そのような行いは、時代が下がり、殺伐とした世の中になるにつれて失われたとしても、その機能のかなりの部分は、今でも生きているでしょう。

来訪者が少ないと思われる日や時間帯を選んで、その石室に入って静かに雰囲気を感じてみてはいかがでしょうか。

 

【関連】

松山・白石の鼻巨石群

宮島巨石群―弥山周辺の遺跡

 

[このページのトップへ戻る]

[ホーム]

Copyright© 2012 Eisei KOMATSU