石舞台遺跡は超古代のパワーセンター
―特別写真読物―
(Part3)
ここで、歴史学者の故・喜田 貞吉(きた さだきち)博士(1871-1939、1896年 東京帝国大学文科大学卒業)に登場していただきましょう。
同氏は歴史学研究の延長として古墳の研究にも精励され、時代考証や実地踏査を含めて、大変ユニークな見解を学会に提起されました。
以下に引用する論考は、明治中期から昭和初期の頃、「石舞台遺跡」がどういう状態にあったかを知ることのできる、たいへん興味深い読み物になっています(底本:喜田貞吉著作集 第二巻 古墳墓年代の研究、平凡社1979年初版)。
それぞれの引用に、私の解説を付記します。
――《問題に上れる墳墓は南向にして、もとは一大石槨を蔽いたる円塚なりしがごときも、今は盛り土の全部を失いて、槨を組み立てたる巨石のみがドルメンとなりて残存せるのみ。ただしその石材の全部がことごとく露われたるにはあらず。その裾の方の大部分はむろん土中に埋まり、土砂は玄室および羨道の内部にまで流れ込みてこれを埋め、わずかに玄室の天井石および四壁を作れる巨石の上部のみが地上に露出せるに過ぎず。要するに、石槨を組み立てたる巨石の高き部分のみがドルメンとなって露わるるのみ。》
喜田氏は、石舞台遺跡は「墳墓」つまり古墳と認識されていたので、本来あるはずの「盛り土」が失われていると観察しています。
その状態は、「石室(古墳の場合は玄室:げんしつ)」や「参道(古墳の場合は羨道:せんどう)」の大半は土砂に埋まり、「わずかに玄室の天井石および四壁を作れる巨石の上部のみが地上に露出」しているに過ぎないので、いわゆるドルメン形状の石の配置に見えるわけです。
――《石槨の内部は前すでにいえるごとく、石材の間隙より流れ込める土砂にて深く埋まり、もとよりその底部を見るを得ず。羨道のごときもその入口塞がりて、這い入ることすら能わざるなり。ただわずかに玄室の右壁と後壁(東北隅)との間に空隙ありて、身を屈してそこより室内に入り、もって内部を調査するを得。玄室内に立って羨道部を望めば、羨道の天井に近き部分のみわずかに開け、これも玄室同様深く土をもって埋められ、その中を覗くことすらも能わず。》
石室の内部は土砂に埋まっているので、前掲の〔写真HIJ〕に見られる「すきま(空隙)」から何とか中に入ることは出来たが、石棺があるかどうかなど内部を調査する余地はない、もちろん参道(羨道)は〔写真F〕に見られる開口部の「天井に近き部分のみわずかに開け」ているに過ぎない。つまり参道の本体は完全に埋まっているので、そこから入る余地もない、と言っています。
この実地踏査が行われた時期は、もちろん、1933年と1935年に京都帝国大学が行った調査より前のことしょう。同氏は大正年間の1913年から1924年にかけて、専任講師および教授として同大学に在職(その後は東北帝国大学で古代史・考古学を担当)されているので、その期間かも知れません。
したがって同氏は、「掘れば必ず石棺が出る」ことを確信していたはずです。
――《しかしてこの島の庄なる石舞台は、まさに五条野のと重定のとの中間に位するものにして、今日学界に知られたる石槨中、実に日本第二の大きさのものなりというべきなり。しかも右の第一に数うべき五条野のは、わずかに古人の調査せるものあるのみにして、今日これを見るを得ざるものなれば、余輩が古墳墓研究上親しく調査し得べく、かつ最も信を置くを得べきものにては、実はこの島の庄石槨をもって最大なるものとなさざるべからず。》
ここにいう「五条野」とは、(その主要部が橿原市見瀬町ではなく同市五条野町に立地する)前記した「見瀬丸山古墳」のことですが、宮内庁の所管になっているため「今日これを見るを得ざるもの」なので、検討対象外としています。
また「重定(しげさだ)」については、別の箇所に「余の親しく調査せるものの中には、この石舞台を除いては、古来有名なる筑後浮羽郡椿子村重定のをもって最大とす」とあります。
――《要するに島の庄の石舞台は、
一、その石槨として甚大なる点において、
二、その用材の甚大なる点において、
三、盛り土を除去せるがために石材の積み工合をよく観察し得る点において、
右の(上の)三個条より、余輩はいわゆる石舞台をもって考古学上最も大切なる標本の一として推奨せんとす。しかのみならず、その所在の島の庄の地の歴史的関係よりして、すでに述べたるごとく余輩は歴史地理学上特殊の興味をもってこれに対するものなり。
馬子の邸宅がこの近地にして、その墓の所在たる桃原またこの地方なるべきがうえに、馬子の桃原墓には別に取り出でて述ぶべきほどの異事あるにあらざるにかかわらず、『曰本紀』がこれを特書せることより見るも、必ずやその墓が特別に著しきものならざるべからざる等、種々の事情を綜合して、しかしてこれに対してこの墓がかく日本に一、二を争うほどの巨大なるものなりとの事実は、桃原墓とこの石舞台とを接近せしむるに十分有力なる証拠となるべきものなりとす。》
ここの前段に書かれている、石舞台遺跡に一目も二目も置いた評価は、現地を見た多くの方が同感されるのではないでしょうか。
しかし後段では、それを蘇我馬子の墓と見なすとする「根拠薄弱な記述」があります。
これは『日本書紀』の626年の箇所に、大臣(馬子)が死去して「桃原墓に葬る」と書かれていて、馬子の邸宅が近くにあり、石舞台遺跡のような大規模な「墓」を造らせ、それを日本書紀が特記するほどの権力者は馬子しか考えられない、というものです。
――《この石舞台をもって馬子の墓に擬するは、必ずしも余輩のみにあらず。すでに『日本書紀通証』これを言えり。曰く、「島の庄村に荒墳あり、疑らくは是れ桃原墓」と。しかしながらこの説多く世人の注意するところとならず。大和の地誌かつて一もこれを言えるものなし。まれにこれに着目するものあるも、しかもいまだこれを賛するものを見ず。故飯田大人の『日本書紀通釈』にはこの説を引きて、しかも「信じ難し」として排斥す。》
上記の「被葬者=馬子」説は、古く『日本書紀通証』(1748年)でも唱えられているが、それに注目し賛同する者は少ない、と書いています。つまり、第二次大戦前の日本では、今日とは違って、「馬子説」は定説にはなっていなかったようです。
それとは別に、上記で注目されるのは、「島の庄村に荒墳あり」という『日本書紀通証』の記述です。江戸時代中期にそれが書かれた頃には、石舞台遺跡は「荒墳」になっていた、つまり見捨てられ荒れたままになっていたという事実です(次項にも関係)。
――《石舞台の名義は何を意味するか、かく見事なる墳墓たるにかかわらず、地誌その他の書のこれを記するもの少く、したがってこれに関して説明を下したるものを見ず。あるいは思う、この石槨もとは盛り土に蔽われて人目を引かず、後にいうがごとく、現今のごとくドルメン状をなせるは比較的近年のことにはあらざるか。延宝年間の著なる『和州旧蹟幽考』には、浄見原宮の事を「細川村より四、五町西なり。」と記して、さてその次に、その近き所に石太屋とて陵あり、とあり。記事きわめて簡単なれども、石太屋《いしぶとや》の名は看過すべからず。今日いわゆる石舞台の名称が、この石太屋の転訛なることは毫末の疑いを容れざるなり。しからば石太屋とはいかなる義か。これまた理由不詳なれども、あるいはその文の示すごとく、大き石をもって作りたる屋というほどの意味ならんも知るべからず。
この荒境が現今のごとくに石材を露出していわゆるドルメンとなれるは、果していつのころのことなるか。この近傍には都塚を始めとして、類似の形式の墳墓多きも、いずれも盛り土をそのままに存し、かくドルメンとなれるものあることなし。果してしからば、これは決して風雨などの作用によりて自然に積土を崩壊し、かくのごときの現状をなすに至れるものにあらずして、必ずやその付近の地を開墾して稲田となすに際し、妨害となるべき塚を取り崩して、しかもその用材のあまりに宏大なるがために、これをのみ取り残したるものと解すべきものならん。》
ここの前段で注目されるのは、「地誌その他の書のこれを記するもの少く、これに関して説明を下したるものを見ず」というように、石舞台遺跡はかなり忘れられた存在だったことです。
ただ地元では「石太屋(いしぶとや)」という名で知られていたようで、江戸時代初期の延宝年間の書物(『和州旧蹟幽考』)が、「浄見原宮」の道案内に関係して、きわめて簡単に触れていると言っています。
この「石太屋」というネーミングは、地元の人が、それを「古墳」と見るよりは、まさに実物通り「石造の大きな屋(=屋根)」という認識であったことを示唆しています。別に「石蓋(いしぶた)」という、もっと即物的な呼び名もあったようです。
もし石室の中に石棺があることを知っていたら、このような呼称は出てこないでしょう。「石太屋」がなまって「石舞台」になったという推論は、適切と思われます。
一方、後段では、「盛り土」が失われた古墳は他には見当たらないので、「失われた(消えた)」のは自然現象ではなく、付近を開墾して稲田とするために墳丘を崩した人為的なもので、その際に巨石群は大きすぎて手が付けられなかったろうと推測しています。
「盛り土」が失われたのは、一部の学者が主張する「風雨などによる自然現象」ではない、というのは一つの見識です。しかし「古墳」である以上そのままでは困るので、上のように推測したのでしょう。
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