石舞台遺跡は超古代のパワーセンター
―特別写真読物―
(Part2)
以上でご覧いただいた石舞台遺跡(いわゆる「石舞台古墳」)の構成は、工学的にほとんど不可能に近いことを成し遂げています。
遺跡入口(料金所前)のパネルにあるような幼稚な推論は、少し考えれば説明になっていないことが分かります。
(r1):入口パネルにある天井石設置法の説明
Part1の写真Fで見られるように、側面の石積みはほとんど垂直です(写真Hは天井を写すために低い位置から広角モードで撮影したもので、実際とは違って見えます)。
そして、側壁の全体は3段積みですが、特に1段目と2段目は巨石2〜3個を並べてあり、両側の側壁の上に2個の天井石(巨石A,B)を載せることによって側壁を下向きに押す強い力を得て、水平方向から受ける力(水平土圧)に対してびくともしない強固な構造を実現しています。
このような狭い空間で、巨石を使って垂直な側壁を構成するだけでも容易なことではないはずですが、巨石A,Bの定置は特に問題になります。
この課題は、例えば日本で見られる、他の巨石構築物にも共通しています。
(r2):巨石を支える石組(松山白石の鼻巨石群) (r3):同(宮島巨石群:後世に付加された建物の一部が写っている)
このような構造を、特に石舞台遺跡のような巨石による天井構造を(人力で)実現する方法は、次の2つしか考えられません。
@精密な立体設計図に基づいて、巨石を支える石(群)を事前に正確に配置し、その上に空中から巨石をゆっくり降ろして載せる。
A主要な支持石だけを事前に構築しておき、その上に巨石を仮置きする。次に隙間を埋めて安定させる石(群)を用意して定置する位置を決めた上で、巨石を少し上方に浮かして石(群)を挿入し、それらの上に巨石を降ろす。
――ちなみに現地では30数個の大小の石たちが、それぞれの役割を整然と果たしており、例えば楔形の石を強引に打ち込んだような痕跡はどこにも見られません。
いずれにしても、「(石舞台遺跡の巨石A,Bのような)巨石を浮かせる」技術または能力を持っていることが条件で、実際に、そうした能力を会得しているスペシャリストの集団が、歴史のある時期に世界各地で、こうした巨石構築物を建造したと考えられます。
ここまで聞くと誰でも、日本に無数にある古墳は一体どうなっているのだ、とお考えになると思います。
結論を言えば、少なくともこれまで詳細が確認されているものは、規模の大小を問わず、石舞台遺跡とは全く別物です。
石舞台遺跡は「古墳」ではありません。だから、1933年(昭和8年)と1935年(昭和10年)に京都帝国大学(当時)が中心になって行った発掘調査で、「石棺」が発見されなかったのです。
なお、現在見られるような姿に整備が行われたのは、1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)にかけてです。
(r4):石舞台遺跡周辺の発掘状況
この写真は発掘状況を示すものですが、「発掘」の名に値する調査は、むしろ周辺部に存在した中小の「(正真正銘の)古墳」に対して行われ、石舞台遺跡には「手を付ける余地がなかった」ことを上の写真は示唆しています。
もちろん、「石棺探し」を行うために、石室の大半を埋めていた「(周りの隙間から侵入した)土砂」を取り除く作業や、完全に埋まっていた参道を露出させる作業などは行われたとみられますが。
ご存知のように、日本には「大仙陵[だいせんりょう]古墳(いわゆる仁徳天皇陵)」のような大規模な古墳が少なからずありますが、問題は「盛り土(墳丘)」の規模ではなく石室です。
大仙陵古墳に関して僅かに残っている記録では、石室には長持形石棺を納めてあり、石室の長さ3.6〜3.9メートル、幅2.4メートルで、周りの壁は丸石を積み上げ、その上を3枚の天上石で覆っている――という程度のものです。
石室の規模で石舞台遺跡を上回るといわれる、「真弓鑵子塚[まゆみかんすづか]古墳」の内部の様子を次に示します。
【注】次の画像はクリックしても拡大しません。
(r5):石室の構造(真弓鑵子塚古墳) (r6):同
ご覧の通り、「持ち送り式(穹窿式)」と言われる、積石を順に内側へせり出させる方式で、室の断面は半球に近くなります。
そして、「横穴式の古墳」のうち、このような「持ち送り式」に共通しますが、石室の上部に大量の盛り土をすることが、この構造を安定的に保つために不可欠の要素で、石舞台遺跡とは構造的に似て非なるものです。
【注】以下の画像はクリックすると拡大します。ブラウザの〔戻るボタン〕を押すなどして戻ってください。
(r7):石室の展開スケッチ(石舞台遺跡) (r8):同(真弓鑵子塚古墳)
「石舞台」は、そもそも覆土を必要としない設計になっています。実際に、建造当初から「むき出し」にする計画だったでしょう。したがって、天井石の隙間から雨が流れ込むことを想定して、排水路を設けたのです。
なお、1991年の一般人による盗撮事件で有名になった「見瀬丸山[みせまるやま]古墳」も、石室の規模は石舞台遺跡を上回るとされていますが宮内庁の所管で、第三者による調査は行われておらず、石室の(特に天井石の)石組などの詳細がわかる写真はありません。
この古墳の開口部が、その盗撮事件のあと1992年に完全に閉鎖される際に、宮内庁によって行われた簡単な調査による石室の展開スケッチには、「石舞台」との共通点が見られます。
それには、これまで他の古墳については作成されたことのない、天井石のスケッチも添えられています。しかし石室内部からのスケッチなので、それら天井石の厚さや全体形状は不明です。
また、公表された写真や展開スケッチに見られる石室正面を構成している巨石は、球体に近いように見えるので、そうだとすると相当な重量になります。しかしこれは、「(石舞台で構築方法が問題となる)天井石」ではなく「壁石」の一部です。
ちなみに床面積は見瀬丸山、真弓鑵子塚、石舞台の順に34u(8.3×4.1)、28.6u(6.5×4.4)、26.5u(7.8×3.4)、そして高さは4.5m、4.7m、4.8mです。
(r9):見瀬丸山古墳石室の展開スケッチ (r10):同、石室正面の写真
【注】いずれにしても「見瀬丸山」は謎に満ちています。
天武・持統合葬陵と「比定・治定(陵墓と決定)」されている「野口王墓(のぐちおうのはか)」との間で比定が二転三転した歴史があり、欽明天皇陵とする「学説」もあるようですが同天皇陵は「梅山古墳」に比定されており、現在の比定にはそれなりの根拠があります。したがって、「見瀬丸山」は天皇陵ではなく、宮内庁の「陵墓参考地」という指定になっています(名称:「畝傍陵墓参考地」)。
要は、確かに内部に石棺が2個あるが、被葬者を特定するに足るデータが存在しないのです。
欽明天皇陵(あるいは蘇我稲目の墓)とする「学説」は、「古墳」にこだわって苦し紛れに生み出した「こじつけ」でしょう。
もしかすると、もともと「石舞台」と同様のものが古くから存在しており、それを古墳として「有効活用」するために、「(構造上は必要としない)墳丘」を(後付けで)築き、そこに石棺を次々と(合計2個を)持ち込んだのかもしれません。ちなみに、それぞれの石棺は、その様式などから製作時期が違うとされています。
現地を研究者に開放し、本格的な学術調査を行うことが望まれます。
(Part1)(Part2)(Part3)(Part4)(Part5)
[ホーム]
Copyright© 2012 2018 Eisei
KOMATSU