「景気」はタスマニア・タイガー(2)

1960年代にタスマニア・タイガーが絶滅したように、1990年代の日本で「景気(循環)」が「絶滅」しました。この事実を、感覚的に了解できる人には、何の理屈も要りません。しかし、「大人」の多くは、物事の判断の基準を、この時代の支配的な論理に一致しているかどうか、あるいは伝統的な「教義」に合致するかどうかに置く傾向があるようです。さらに、学問の名において、現実を曲解する「努力」が行われていることが、混迷に輪をかけています。

自分は高血圧で病気だと固く信じている人に、病気ではないことを納得してもらうのは、簡単ではありません。「現実に」血圧が高くて、めまいや倦怠感があるのだから、医者が言うように降圧剤を飲み続けるしかないと言うでしょう。実は、めまいや倦怠感は降圧剤の副作用で、食事の片寄りや運動不足を解消するだけで済むかもしれないことに、思い至らないのです。

そこで、ダメ押しとして、「景気(循環)の、なれの果ての姿」をご覧いただきたいと思います。その前に、「景気(循環)」というものが、これまでどのように表現されていたかを、図1と図2に示します(グラフは、四半期毎の前年同期比の値をプロットしたものです)。

[図1]

[図2]

図1は「在庫循環」、図2は「雇用循環」と呼ばれているもので、四つの象限を反時計方向に回りながら、景気の「山」や「谷」を演出してきました。この期間では、91年第2四半期が景気の「山」、93年第4四半期が「谷」と説明されています。このようなグラフでは、右上のエリアが第1象限と言われ、そこから反時計回りに、第2、3、4の各象限となります。図1では、景気回復につれて、生産が需要の伸びに追いつかず、在庫の取り崩しが行われます(第4象限)。その後、生産は依然としてプラスですが、それが需要を上回るようになり、在庫が積み上がって「景気の山」に近づきます(第1象限)。それに続いて、生産を絞ることによって在庫を減らしていく局面(第2象限)を経て、「景気の谷」が来ます(第3象限)。図2では、景気回復に伴なう生産増を、とりあえず所定外労働時間を増やすことによって対応します(第4象限)。その後、雇用増が本格化するとともに、所定外労働時間は元の水準に戻っていきます(第1象限)。そして景気の減速局面では、まず所定外労働時間の削減で対処し、やがて雇用にも手をつけることになります(第2象限→第3象限)。

いわゆる「バブル」崩壊直後の、1990年は特異な年で、何が起こったか分からず皆がバラバラの方向に走りました。大多数は、「好況」がまだ続いているという錯覚にとらわれていました。その状況が、二つのグラフにも現れています。その後の足取りは、循環の局面というよりは、「正常化」へのプロセス、あるいは「景気(循環)の絶滅過程」と見るのが正しいでしょう。グラフ全体として、「最後の大循環」とも言えます。

以前は景気説明の定番として必ず報道されていた、これら二つのグラフを、最近さっぱり見かけなくなったのはなぜでしょうか? それは、次に示す「景気(循環)のなれの果ての姿(図3、図4)」を、循環論を信奉する人たちが説明できないからです。旧来の理論に合わないもの、説明できないものは「無視する」というこの姿勢は、自然科学の分野でも「多用」されています。

[図3]

[図4]

繰り返しになりますが、個人消費が「景気」を牽引するということは、もうありません。「内需拡大」は起こり得ません。図3で「生産」がプラスになっているのは、主にアメリカ向けの輸出と情報社会化の進展によるもので、「景気」に関わる力はありません。その生産増を、雇用を増やさずに、残業でまかなうという企業の対応が、図4に現れています。いずれにせよ、もはや「循環」はなく、原点に近いところでの「振れ」だけがある、というのが「市民の選択」が創り上げた経済実態(地球環境にも配慮した、普通の生活の姿)です。

この現実が意味するものは、もはやこのような分析が、つまり「景気」を論じること自体が、意味をなさない局面に日本の社会が突入したということです。それにもかかわらず、統計に出てくる細かい「振れ」に一喜一憂する姿は、「景気」という自ら創り出した幻影に振り回される構図に見えないでしょうか。

「景気」が存在しないのだから、「景気」によって雇用問題を解決することはできません。別の解決策がないわけではありませんが、まずこの事実を認識しないことには、雇用への正しい取り組みが始まらないことは明らかです。

雇用についての現在の苦境は、経済が拡大し続けなければ雇用が確保されないという、資本主義経済の性格に起因しています。現在の日本やドイツや北欧のような、「熱狂消費」を卒業して、「正常な消費姿勢」が維持される場合に出現する雇用問題への処方箋は、資本主義市場経済に内蔵されていないのです。加えて日本で特徴的なことは、この数年間に日本の大企業が、その社会的責任(雇用の維持・確保)を放棄して、なりふりかまわずアメリカ流の経営の外面(利益水準や経営効率)のとりつくろいに突っ走ったことです。グローバリゼーションの流れに自ら身を投じて、それを唯一の価値基準とする風潮が蔓延するようになりました(このシリーズの「グローバリゼーションの陥穽」参照)。アメリカと日本は、基礎条件がまったく違います。アメリカを眺めていても答えは出ません。アメリカはアメリカの道を進むでしょう(このシリーズの「アメリカはどこへ行く?」参照)。

「雇用創造」については、官民とも、伝統的な職業観にとらわれていては答えは出ません。「就職」や「給与」などの概念を固定的に考えず、「押し付け型」でない雇用創造を行うことが、現代のセンチメント(社会的心象風景)に合っています。例えば、NGOや社会奉仕型のボランティアに資金支援する道を開くのです。これをやれば、自発的で、自然発生型の「人の働き」の百花繚乱がみられるようになるでしょう。---こういうものこそ、真の雇用対策であり、税金の生きた使い方です。全くその通りの趣旨の、「エコマネー」という仕組みが山口県で実用化されており、こういったものを全国に広げることは、さほど困難な課題ではありません。

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[シリーズ第1部「混迷の星」の目次(contents)]

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